都建幸会 心療内科・精神科

都健幸会 総合受付ダイヤルと心療内科・精神科直通ダイヤル

境界性人格障害

最近、不登校や親子の問題が多い。小さい頃から「泣くな、怒るな」「人に迷惑をかけるな」「勉強」「素直にいうことをきけ」、親のいい子に育ってほしいという思いが子どもを追い詰めている。いつもニコニコして自分の感情、やりたいことが分からない。何かに追い立てられ、内心イライラしている。そういう人が増えた。「何でも話し合える信頼感」、家庭の中ですら一番大切なものがない。大人になっても、自分を押し殺し、ずっと努力し、人に勝る生き方しかできない。時折、ばからしくなって、ぶち壊したくもなる。ツイッターの炎上、毒物混入や無差別殺人は偶然ではない。人に嫌われるのが怖くて、いつもニコニコしている人。頑張ってる人。それに疲れてしまった人。全部、「いい子病」。いい子でい続ける人の孤独、悲しみ、つらさ、さみしさ。そんなものが伝わってくる。そこまでしなければ、その人は生きてこれなかった。親がそれしか許さなかった。社会や大人が怖い、人が信用できない、自分が嫌い。ぶち壊す勇気のある子どもは、万引きや非行、家を出て早くに自立、まだいい。自分の人生を放棄して、親に尽くす子どもたちが、あっちにもこっちにもいる。自分の存在、生き方、そういうものを認められず、親の考えの中で生かされてきた人の心には「怒り」の感情が渦巻いている。「怒り」の感情はおそろしい。人を傷つけ、何よりも自分を傷つける。最終的には、イライラを通り越して、疲れ切ってしまって、精神病になる。今日も私のもとを訪れるのは、そんな人ばかりだ。頑張った。もう十分。これからは「誰かのため」じゃなくていい。自分らしさをとりもどし、自分の幸せを追い求めてほしい。

家庭の中から生まれる境界性人格障害

お母さんはしつけをしないで

刑務官として犯罪者に関わり続けたカウンセラーが書いた本。結局、親子の問題にたどり着いて、今は親子にかかわっている。

第一章 犯罪としつけ

中学生や高校生の殺人事件が増えているのはなぜか。

事例

  • 平成15年7月、長崎市の中学1年生の男子生徒が四歳男児をビルの屋上から突き落とし殺害。生徒は人懐っこく、大人にも子どもにも好かれていた。成績はいたって優秀、5教科の合計点は465点と学年トップクラス、学校が終わってからも指定の服装で過ごす生徒だった。
  • 平成12年5月、愛知県豊川市の高校3年の男子生徒が主婦を刺殺。彼は高校の特進クラスに在籍し成績は常にトップクラス、運動系の部活動にも積極的に参加、やさしい人柄で模範的な生徒。新聞の見出しは「優等生に逮捕状「まさか」高校教師ら絶句」だった。
  • 平成15年11月、大阪府河内長野市で高校1年の女生徒が、大学1年の男子生徒に親の殺害を教唆。男子生徒は自分の父親を殺害、母親と弟に重傷を負わせる。犯行を首謀した女生徒は中学校では生徒会長を務め、先生からの信頼も厚く、高校でも成績優秀な文学少女と評価されていた。
  • 共通するのは、学業優秀でやさしい優等生。それが、ある日突然、凶行に及んでいる。彼らには二面性があった。大人の前で見せる「いい子」の顔と、大人がいないところでの「異常性」だ。

事例

  • 長崎の生徒はちんちんをいじる癖を母親からきつく注意されていた。その反動で、人目のつかないところで児童にいたずらをする変な性癖を持つようになった。この日、いつものようにいたずらしていたら、監視カメラがあることに気付き、パニックに。そして凶行に至る。
  • 河内長野の女生徒は、ゴシックロリータという異様なファッションに凝り、リストカットで血にまみれた腕の写真を使い「狂気の唄」と題したホームページを作るなどしていた。
  • 親の「いい子に育ってほしい」という思いが、子どもを追い詰めている。大人の前では「良い子」、しかし子どもたちだけになると、些細なことで切れ、暴力を振るう。陰湿ないじめを首謀する。万引きや援助交際、動物殺し。親や先生は気づかない。いつも「まさかうちの子が」になる。

事例

  • 親の前では「いい子」の19歳少年。強盗傷害事件を何度も起こし、少年院に3回入った。少年院ではいつも模範生、「更生した」と判断され出所するが、すぐに事件を起こし舞い戻ってくる。相手に大怪我を負わせることもたびたび。親がいないところでは、些細なことで切れ、はどめがきかない。一方、大人の前では、礼儀や挨拶、何もかもが完璧。

しつけで重んじるのは、「勉強」「泣いたり怒ったりしない」「人に迷惑をかけない」「素直、親や先生の言うことに従う」こと。全ては、勉強ができる、礼儀正しい、人に迷惑をかけない、「いい子」にするための親の愛。その上では、「子どもの過ちをただすのが親の役目」だし、「大体は親の意見が正しく、子どもが間違っている」し、「子どもは従わなくてはいけない」。家庭内では、親の期待や無言の圧力があり、子どもは自分を押し殺し親の意向をくんでいる。それに親は気づかない。「勉強」や「礼儀」や「感情的にならず」「言うことを聞くこと」は何より優先される。その上では、暴力や威圧、子どもの好きなものを取り上げる、など多少は仕方ない。これが日本の現状。

権力や暴力などを用いて、相手を思い通りに従わせる人間関係
これらを通して、子どもに教えているのは、「権力や暴力などを用いて、相手を思い通りに従わせる人間関係」。結局、大人が見ていないところで、暴力を振るうし、陰湿ないじめを首謀するし、金や物など権力に固執する。自分より弱いものを見つければ、服従させ、支配する。それが当然の権利と考える。子どものころから散々我慢し、親から学んだ唯一のことだ。男性は反社会性人格障害、女性は境界性人格障害になる。これらは子どもの自我が出だす、そして体格的に大人と遜色がなくなる、中学2年以降に次第に顕著となる。それまで「優等生タイプの大人しくて育てやすい、いい子」が、「弱者に対し暴力的で無理難題を言う、言うことを聞かないとすぐ切れる子」になる。

反社会性人格障害

内心はいつもイライラして攻撃的。急に不機嫌になる。あるいは急に切れてムチャクチャする。怒りの感情のコントロールがつかない。

境界性人格障害

いつも寂しくて不安。リストカット、過食や拒食、万引き、買い物依存、情緒不安定、不眠症など生じる。重症例ではPTSDを伴い、多重人格を生じる。

第二章 家庭の背景

母親と子供

子どもが泣くと、「よしよし」と自然にあやすことのできるお母さん。かと思えば、そうしたくても、実際に取る行動は「どうして困らせるの!」と叩いてしまう人もいる。これは、幼少期に泣くと無視されたり、叩かれたり、虐待を繰り返し経験し、泣くのは悪いこと、叩かれても仕方ないと反射的に考えるから。この心の傷をいやすのは容易でない。周囲の理解も必要だ。しかし、「当たり前のこと」ができないお母さんに世間は厳しい。「なんでそんなこともできない」と軽々しく批判する。背景までくみ取って、お母さんをいたわることが、お父さんや地域の人々にとっての「子育て」「社会貢献」であるのだが。

子どものことで何かが上手く行かないときは、反対のことをしてみるといい。気になる問題があるなら、それを解決しようとするのでなく、認め許すこと。例えば、おねしょが治らない子がいた。お母さんは心配で寝る前にも、夜中にも起こしてトイレに連れて行くが、それでも明け方に漏らしてしまう。「この年でおねしょするなんて…」精神的に追い込まれて、きつく当たってしまう。カウンセリングでは、「反対の言葉をかけましょう。おもらししていいからね。お母さんが洗うよ。」と指導した。素直にやってみると、あれだけ治らなかったおねしょが次のカウンセリングではもう治っていた。

ほかにも、さみしがって母親につきまとう場合。「邪魔、あっちいって」ではなく、毎回「おいで、一緒にいてね。」と言ってみる。愛されていないと不安になって付きまとっていた子が、安心してあれやこれや親以外のものに好奇心を持ち、付きまとうのをやめる。ゲームも忘れ物も食べこぼしも爪噛みも「そんなのダメ」から「していいよ」に。子どもの将来を本当に思うなら、「今すぐ」やめさせる必要はないはず。「今すぐ」と思うのは単に親の不安や保身でしかない。ダメな親と思われたくない、批判されたくないという親の弱さ。そんなものの犠牲に、子どもをしてはいけない。いずれできるようになればいい。

問題のある家庭の構図。大体は、規律を重んじる口うるさい母親が家庭を支配している。診察でも母親はしゃべり続け、子どもや医師の出る幕がない。 そして父親の存在感がない。自信のない母親は学歴という確かなものに依存する。「勉強」や「しつけ」のためなら、子どもに我慢させ・苦痛を与えても良いと思っている。あと、父親と母親が逆転しているケースも多い。口うるさい、威圧的な父親と、それに従うだけのやさしい、かわいそうな母親。

しつけも虐待も親の側からすると同じ。「子どものためを思って」「愛情で」している。虐待は「子どもの心身の成長に悪影響を及ぼす親の態度全般」。しつけは好ましい影響を及ぼす親の態度全般と言える。本当のしつけは、親が好奇心の赴くまま、自分の人生を力いっぱい生きること。子どもの人生に助っ人気分で代打出場したり、子どものしつけうんぬんに気を取られるようではダメだ。いつも「誰かのため」の人生で、自分を押し殺し、我慢し不平不満を持ち、それでも頑張り続ける姿を「立派」と思ってはいけない。それは嘘であり、偽善であり、自分の人生を放棄する無責任な態度にほかならない。自分の人生がない分、人の人生を奪うこともする。

第三章 虐待とは

しつけという名の虐待をやめるのは難しい。まずできることは、虐待という認識を持つことだ。「子どものため」「愛情でしている」と考えるのでなく、「私は子どもを叩いてしまう」と正直に嘆くこと。これが大切。 そうでないと、「自分は悪い子」「叩かれても仕方ない」と子どもが自分を否定し、卑屈になる。それは、その子の人生に影を落とす。--人生で一番大切なもの。それは勇気。勇気がなければ幸せにもならない。人を幸せにもできない。何かに立ち向かうこと、夢を持ち続けること、愛する人を守ること、すべて勇気だ。ひとり立つ覚悟がなければ、何も成し遂げることはない。-- 親が自分を守ろうと、間違ったことを正当化する、そういう汚い姿が子どもを一番傷つける。叩くこと自体はまだましである。親が戦う相手は、目の前のしつけようとする子どもでなく、自分の中にある親が植え付けた信念である。子どもを見て無性にイライラする人は、本当は自分の親に怒りたかったはず。それをよく思い出してほしい。子どもは親が心の奥に封じ込めた問題に気づかせようとしているに過ぎない。

問題のある家庭のあり方にはふたパターンある。ひとつは家族の誰かが明らかな問題を呈している。夫のアルコール依存、無職。あるいは子どもの非行、不登校。貧乏や病気で見るからに不幸な家。もう一つは、一見、何も問題がない家。誰もがうらやむような、いい親でいい子。裕福で何不自由ない。しかし心の闇は深く、それから逃れるように日々の業務に没頭する。そういう家庭

事例

  • 一家四人が公務員でエリート。有能な仕事ぶりで、近所でも「いい家柄」と評判だった。あるときから、長女が深い自己嫌悪に襲われ、リストカットを繰り返す。両親はそれに全く気づかない。しばらくして長男も、裸で大声でわめき散らすようになった。「どうしてくれる」「責任を取れ」と。さすがにおかしいと親も気づく。母親は「どうして困らせるの」とオロオロし、父親は「そのうち落ち着く」と静観を決め込んだ。長女は異性交遊、売春に身を捧げ、長男は辞職し引きこもりの生活を続けた。
  • ある有名女優。地位も名声もある彼女が、なぜ休職を余儀なくされ、精神科治療を受けたのか。同じである。深い自己嫌悪に襲われて、自殺を考えていた。母親から、常に成功すること、トップでいることを求められ、それにこたえ続けた人生。
  • ある女生徒。優等生で成績は常にトップ、生徒会長も務めた。彼女の両親は医者。作文では、「私の家族」と、苦境を家族みなで支え乗り越えた体験を書く。全国的に評価され新聞にも載った。しかし、その実態は、家庭内では両親の口論や暴力が絶えず、ほかの兄弟は不登校、両親はやがて離婚。女生徒は施設に預けられる。教育現場や社会は、全く見抜けない。
  • こういうのを「仮面家族」という。家庭の問題を放置し、その反動で仕事や勉強に打ち込んでいる。ルールやタブーがたくさんあり、本音で話すことなどない。家庭のような温かみはなく、他人行儀な関係。分かり合うことをあきらめて、相手の心の傷や怒りに触れないよう、無難なことしか言わず生活している。自分を押し殺し、内心イライラしながら、相手に合わせている。皆が自分に嘘をつき、ごまかすことに慣れてしまっている。表面的な笑顔はあるが、楽しいことなど何ひとつない。それが仮面家族。

人間関係で大切なことは、相手を理解すること。「分かる、認める、許す。尊重する。可能性を信じる。」、そういう態度で接すること。「相手を変えたい」と思わないこと。「でも」「しかし」など話を遮らないこと。「わからない」と拒否し、「これじゃダメ」とはねつける、そこには人間不信や自己嫌悪しか生まれない。真剣にやって否定されたら、やる気を失う。心が傷つく。でも何もしないと「反抗的」と怒られる。それなら誰でも分かるような悪いことをして叱られる方がまだ楽。親の嫌な面を見なくてすむ。次第に子どもが悪いことしかしなくなるのにはこういう背景がある。

まずは、子どもの理由や理性、可能性を信じることだ。幼少期から大人になるまで口答えも反抗もせず、一生を「いい子」で過ごさせるしつけはやめたほうがいい。子どもは失敗や悪いことをするもの。誰構わず迷惑をかけるもの。それを大人が認めることで、勝手に成長していく。余計な心配をして子どもの未来を奪ってはいけない。そんな権利は誰にもない。

事例

  • 「わからない」ーー子どもが転んで膝をすりむいて「痛い」と泣いても、「それぐらいで泣くな」と言う。流行のゲームやカードを「ほしい」と言っても「あんなもの意味がない」と否定する。「買い物に行きたい」と言っても「お母さんは疲れてる」と諭す。
  • 「罰する」ーー子どもが書いた宿題の作文を「これじゃダメ」と書き直させる。部屋を掃除しても「まだ汚れてる」と注意する。謝ってジュースをこぼすと「もうあげません」と言う。ゲームの制限時間を守らないと、「もうダメ」と没収する。子どもが集めたガラクタを「汚い」と捨てる。 (ゲームは今やなくてはならないコミュニケーションツールである。親もゲームをして子どもと時間を共有すること。古い考えで気に入らないからと否定しないこと。)
  • 子どもは親を無条件で受け入れる。はじめは、よその親と比べることもないし、親に疑問を持つこともない。小学生頃になると、「どこか違う」と感じるようになるが、経済的・精神的な自立もなく、自分を押し殺してでも親に従い続ける。いつも敬語で話す、行儀よくきっちり挨拶する、帰りの時間を気にする、勉強ができる、感情的にならない、誰にも優しくて良い子、などすでに小学生・中学生であれば、それは過剰なしつけ。大体は中学2年以降に、普段は大人しいが、内心、暴力的・支配的ですぐ切れるという症状で現れる。(一部、小学生頃からADHDと類似した症状を呈する例もある。) 薬も多すぎれば毒となり人を殺すように、小さい頃からの過剰なしつけは子どもにとって毒となり、人格の発達をゆがめ、その子の将来を奪う。

第四章 社会的背景

天皇の国に生まれた誇りと愛国心。それが社会を律していた。その天皇制の行き着くところは、天皇を使った支配と戦争。「天皇のため」「お国のため」ならなんでもする、人を殺してもいい。天皇に近い人間が正義で、それ以外は悪。日本国民は一丸となり暴走し、終戦にともない天皇制は廃止された。

その後の精神的空白を埋めたのが、経済成長。豊かになることが幸せと信じてきた。そこでは学歴や地位、財産が幸せの指標。頑張って努力して人に勝り、それで初めて認められる。大量生産には管理と統制が求められ、個性や感情は邪魔なだけ。タバコ屋のおばちゃんは自販機に、酒屋のおじさんはコンビニ、八百屋のおじさんは大型スーパーにとってかわられた。町にかけがえのない人たちは、皆が皆、個性のないサラリーマンになり、どうでもいい人になった。利害関係が世の中を支配した。

そうして得られる「幸せ」は、ブランド品で身を飾り、夫や娘が立派でも、週末レジャーに出かけても、むなしさやわびしさで溢れている。いつも何かに追い立てられて、人々は感情を押し殺し日々の業務に没頭、「何かおかしい」と感じつつも、「仕方ない」とあきらめた。そんな苦労を知らず無邪気にはしゃぐ子ども、個性を発揮し社会で成功した人を見ると、無性にイライラした。ネットですぐ炎上する、有名人が不祥事を起こすと喜んで叩く、そういう世の中だ。

バブル経済がはじけ、破たんが明らかになっても、日本を誤った道に走らせた大人たちは責任をとらず、今も「最近の若者は…」とえらそうに居座り続ける。若者は意欲を失い、不登校やニートになる。急に切れて凶行に走る。やつあたり的な無差別殺人や、点滴の毒物混入は偶然ではない。戦争はなくなっても、今日も人の尊厳は傷つけられ、踏みにじられている。そういう社会にした責任を、我々は今こそとらなければならない。

第五章 お母さんのあり方

何もお母さんだけ悪いのではない。夫が精神的な柱として機能しないから、妻が一人で背負い込む。「仕事で稼いでる俺が偉い」とばかりに、家事と育児で大変な妻をサポートする気がない。それに、今の時代はお母さんを守ろうとする祖父母がいない。大体は、母親になった娘のことよりも自分の老後を心配する、寄生虫のようなやつらであふれている。核家族化も悪くない。祖父母までもがお母さんや子どもに害を及ぼすことは防がれる。

お母さんは子どもの問題を放置したらいい。まずは、子どもの本来持つ、自分で学び、自分で律する力を信じることだ。子どもの方も、失敗を繰り返し、その中で学び、成功することを望んでいる。幼い頃から成功することに何の意味もない。害しかない。何度も繰り返し失敗し、それが許される環境を作ること。人に迷惑をかけても、「あそこは子育てがなってない」と批判されても、すべて親が防波堤となり、子どもを守ること。それこそが親の役目だ。 失敗しない大人びた子どもからは、痛々しさ、悲しさしか感じない。甘えることなどあきらめ、親のエゴの押しつけにじっと耐え、本当は深く傷ついているのに、親を支えようとポーカーフェイスで今日も取り繕いの笑顔を見せ続けている。子どもは自分を犠牲にしても、親を愛し守ろうとする。が、傷つきがないはずがない。いくら優等生に見えても、いずれ不登校や不適応、突発的な犯罪などを引き起こす。たとえ、その子が大丈夫でも、その子が親になったとき、皆が苦しみ傷つけあう。家族の誰かが精神病になるのも、経済的に行き詰まるのも、家族が壊れるのも、不幸な事件が起こるのも偶然ではない。

学歴がなくてもいい。社会に貢献しなくてもいい。うちの子は大器晩成とどっしり構えることだ。育児書など読まなくていい。親も、子にかかりきりになるのでなく、自分の道を行くことだ。好奇心の赴くまま、自由に行動すること。親のそういう自由で自立した姿勢が、何より最高の教育である。「人のため」「子どものため」と何かと我慢して、怒り、ねたみ、さみしさ、不信感などを心の中に育ててはいけない。親のそういう感情と未練は、すべて子に背負わせることになる。子どもは全部、分かっている。親は、その子の道を歩ませる勇気を持てばいい。いつまでも、破綻した経済成長の夢を追い求めてはいけない。これからは、失われた個性を取り戻し、いかに自分らしく生きるか、そういう時代だ。

自分を偽ること、「人のため」に生きること。そこから虐待は生まれる。相手のいい部分、嫌な部分、すべてに理由があり、その人の尊厳がある。人を変えようとするのでなく、可能性を信じること。その人自身の「人生の課題」を親だろうが、子に障害があろうが、邪魔し奪わないこと。そういう姿勢が、個性の尊重であり、今こそ求められている。「経済」や「利害」はもういい。これからは、「個性」の時代だ。

家族のイラスト